日本のプロゴルフ界に偉大な功績を残し、多くの人々に感動を与えた先人に対して、感謝と敬意を表する
「日本プロゴルフ殿堂」の記念式典です。
式典第六回
第六回 日本プロゴルフ殿堂入り
プロゴルファー顕彰
「第6回日本プロゴルフ殿堂入り式典」が3月23日、神奈川・パシフィコ横浜で開催している「ジャパンゴルフフェア」のイベントステージで行われた。顕彰されたのは3人の往年の名選手たち。主に1972年以前に活躍した選手に贈る「レジェンド部門」では藤井義将(故人)を顕彰した。福岡県出身、21歳でプロ入りし、1962年には霞ケ関CCとトーナメントプロとして契約を結ぶ新しい時代を開いた。故郷・福岡の玄海GCに移った後は、九州を拠点に「玄海の荒法師」の異名を取り、1971年日本オープンを制した。シニアでも活躍し通算23勝。後進の指導にも力を入れ、尾崎将司がプロ野球からゴルフへ転向した際に最初に指導している。
主に1973年以降に活躍した選手に贈る「プレーヤー部門」では2人を顕彰した。男子の金井清一は新潟県出身。東京・秋葉原の電気店に就職。会社のビルの屋上にあった練習場でゴルフを始め、ベン・ホーガンの著書「モダンゴルフ」を「師」に独学で勉強しながら、ホーガンの理論に精通していた陳清波の教えを請い、自分のゴルフを作り上げた。1972年日本オープンで初優勝するなど公式戦5勝を挙げて「公式戦男」の異名も取った。シニアでも最多5度の賞金王など活躍、レギュラー、シニアツアー通算29勝を挙げている。
女子の吉川なよ子は北海道出身で、19歳の時に滋賀・皇子山CCにキャディーとして就職してゴルフに出合い、23歳でプロテストに合格した。1979年には日本女子オープンを制するなど、小さな体を目いっぱい使ったスイングで活躍。1980年代半ばにはNHK連続テレビ小説の「おしん」の主人公にダブらせて「おしんプロ」とも呼ばれた。1995年再春館レディースでツアー通算29勝目を挙げたが、永久シード権を得られる通算30勝には届かなかった。
顕彰に先立ち、松井功理事長が式典に列席した日本プロゴルフ殿堂正会員、賛助会員に感謝し、顕彰者3人の功績を紹介した。来賓の竹田恆正・日本ゴルフ協会会長は「今のゴルフ界の発展は多くのプロフェッショナルの活躍が大きい」とあいさつ。島村宜伸・日本プロスポーツ協会会長は「往年の名選手がみなさんの前によみがえり、ゴルフファンとしてうれしい」と話した。顕彰プレゼンターは、日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長である青木功副理事長が務めた。
藤井義将は長男・久隆プロが壇上に。「3年前に亡くなった父に代わってお礼申し上げます。父は恥ずかしがり屋だったので、生きていてもこのステージには上がっていなかったかもしれません。父も喜んでいると思いますし、家族にとっても誇りです」と話した。
吉川なよ子は「殿堂入りは別世界の話だと思っていました。身に余る光栄です。ゴルフに恋してきて大変なご褒美をいただきました」とあいさつ。メディアとの会見では「本当に良かった。これが、私の30勝目かな、と思います」と感激した様子。第一線を離れた後は「ゴルフ界に貢献できることを探して」と、視覚障害者へのゴルフ指導など行いながら「いろいろな人とゴルフを楽しんでいる」という。会場にはそのブラインドゴルフの生徒たちが駆け付け、花束を渡した。
金井清一は壇上に上がると、列席者に向かって両手を上げて喜びを表し、現役時代にライバルでもあった青木副理事長から顕彰状とトロフィーを受けると感極まり、抱き合って涙を流した。「ありがとう、どうもありがとう」というのが精いっぱい。青木副理事長が「この人がいなかったら、今の自分はいないかもしれなかった」と話し、大きな拍手に包まれた。メディアとの会見では「ゴルフ一筋できました。ゴルフ界は松山君たち若者が楽しみです」と、話していた。
式典後、パシフィコ横浜内で顕彰者や家族、会員らが集まってパーティーが行われた。茂木友三郎・キッコーマン㈱取締役名誉会長が乾杯のあいさつをし、式典で司会を務めた戸張捷・日本ゴルフ協会常務理事と、列席者でゴルフ中継に長らく携わってきた森下桂吉・テレビ朝日アナウンサーが顕彰者らを壇上に迎えて「質疑応答」。藤井久隆プロは「父が日本オープンに勝った時(1971年)にプロ仲間が帝国ホテルで祝勝会をするから、当時霞ケ関CCにいた私も呼ばれて駆け付けたら、親父は『疲れたから』って九州に帰ってしまった」という秘話を披露。吉川なよ子は1988年に賞金女王になった時のことを聞かれ「その前年までもう少しでとれるところにいたんで、今が頑張り時と思ってやりました。当時はパーシモンに糸巻きボール。最終戦まで大迫(たつ子)さんともつれたと記憶しています」と話し、拍手を浴びていた。