日本プロゴルフ殿堂

偉業を称え、未来を拓く。ゴルフから

日本プロゴルフ殿堂入り発表の記者会見

Japan Professional Golf Hall of Fame

2月1日、東京・品川プリンスホテルで、
第9回顕彰者を発表した。

日本プロゴルフ殿堂入り発表の記者会見

 第9回日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者発表の記者会見を2月1日、東京・品川プリンスホテルで行った。会見には日本プロゴルフ殿堂の松井功理事長と、副理事長の小林浩美・日本女子プロゴルフ協会会長が出席した。表彰ノミネート委員29人の投票・意見を参考に理事会で決定した。
コロナ禍で延期になっていた第8回および今回の第9回日本プロゴルフ殿堂入りを顕彰する式典は、3月11日(金)に行う。

山本増二郎山本増二郎
古賀春之輔古賀春之輔
安田春雄安田春雄

 松井理事長が発表した第9回顕彰者は以下の通り。

1972年以前に活躍し、功績を残したプレーヤーに贈る「レジェンド部門」では、山本増二郎、古賀春之輔、安田春雄の3人を選出した。

 山本は静岡県出身。15歳のころ、地元の川奈ホテル建設事務所に就職し、ゴルフを始めた。東京ゴルフ倶楽部(駒沢)でプロ修行し、川奈ホテルゴルフコース(静岡県)でプロをスタート、東京ゴルフ倶楽部・朝霞(埼玉県)を経て、我孫子ゴルフ倶楽部(千葉県)の専属となる。林由郎ら後輩を育て、我孫子一門の礎を築いた。復員した戦後、1946年10月に我孫子ゴルフ倶楽部にプロを集めて関東プロゴルフ協会再結成を決議し、会長に就いた。1948年に関東プロを復活させるなど、戦後のプロゴルフ界復興に尽力した。1969年に日本プロゴルフ協会第3代理事長(現会長職)に就任。約 5年間、日本プロゴルフ界のかじ取りを担った。

 古賀は東京都出身。慶応大学を中退し、父親が居を移していた兵庫県の甲南ゴルフ倶楽部でゴルフを学んだ。プロ入り時期は不明だが、1932年日本プロなどに出場した記録が残っている。優勝歴はなかった。太平洋戦争中は徴兵され、戦後は宝塚ゴルフ倶楽部(兵庫県)に所属、関西ゴルフ界の発展に努め、関東と関西に分かれていたプロゴルフ協会の統一にも尽力。1957年の日本プロゴルフ協会設立後、第2代浅見緑蔵理事長(現会長職)から第3代山本増二郎、第4代鈴木源次郎と3代に渡って副理事長として支えた。英語が堪能で国際交流でも存在感を発揮したという。宝塚ゴルフ倶楽部では島田幸作、大迫たつ子と2人の日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者を育てている。

 安田は東京都出身の79歳。中学時代に自宅近くの砧ゴルフ場で球拾いのバイトをしていた時に、中村寅吉と出会って師事。1962年プロテストに19歳で合格した。1968年中日クラウンズで鈴村久と9ホールのプレーオフを制して初優勝。アジアサーキットに積極的に参戦し、1969 年フィリピン・オープンでの日本選手初制覇など、海外3勝を挙げた。ショットメーカーとして定評があり、気持ちが乗った時にこぶしを突き上げるポーズで「ガッツ安田」というニックネームがついた。当時日本のゴルフ界のトップにいた杉本英世、河野高明とともに、世界的スターだったパーマー、ニクラウス、プレーヤーになぞらえて「和製ビッグ3」と呼ばれ、人気を博した。国内15勝、海外3勝。シニアツアーでも活躍、3勝を挙げている。

尾崎直道尾崎直道
塩谷育代塩谷育代

 主に1973年以降に活躍したプレーヤーに贈る「プレーヤー部門」では、尾崎直道、塩谷育代の2人を選出した。

 尾崎は徳島県出身の65歳。尾崎将司、健夫と3兄弟の末弟で、持ち前の勝負強さで永久シード選手となった。既にゴルフ界でトップにいた兄・将司の元でプロを目指し、千葉日大一高卒業後、1977 年にプロテストに合格。1981年にシード権を獲得。1984年静岡オープンで初勝利を挙げてから一気に開花し、その年3勝を挙げて前田新作との賞金王争いに敗れたが賞金ランク2位に入った。以後、勝利を積み重ね、1988年日本シリーズで初の日本タイトル。1991年日本シリーズでは大会前日に父・実さんが死去し、欠場した兄2人から託されて出場、優勝を果たして初の賞金王になった。1993年から米ツアーに挑戦し、優勝こそなかったが8年間シード権を保持した。1999 年には日本プロ、日本オープンを制し、日本タイトル4冠を達成、2度目の賞金王になった。シニアでも米チャンピオンズツアーに出場後、日本で2012 年に賞金王になっている。ツアー通算32勝、賞金王2回。

 塩谷は愛知県出身の59歳。中学時代は陸上選手で全国放送陸上選手権の走り幅跳びで優勝している。樋口久子が陸上出身と知り、プロを目指す。桜台高卒業後に名古屋市内の練習場に入り、1982 年プロテストに合格。1985 年から東海大の田中誠一教授の指導で科学的トレーニングを取り入れた。1987 年にマレーシア・レディースオープンで優勝。JLPGA ツアーでは 1989 年ヤクルトミルミルレディースで初優勝。1992 年に初の賞金女王、1995 年には日本女子オープン、JLPGA 明治乳業カップと公式戦2勝など計5勝を挙げ、2回目の賞金女王となった。1996 年日本女子プロを制し、史上4人目の公式戦3冠を達成。1993年に空間デザイナーの伊藤栄治氏と結婚。98 年にシーズン途中で第1子を出産し、翌99年にツアーに復帰。2001年ヴァーナルレディースなど母として計3勝を挙げ、ツアー通算20勝の大台に乗った。2011 年にツアーから引退。現在はテレビ解説や若手、ジュニアの指導などで活躍している。

 松井理事長、小林副理事長は、顕彰者5人とのかかわりも深く、それぞれが思い出を話した。

 松井理事長は「山本さん、古賀さんにはプロになった20代にお会いした。協会の裏方で支えていただいた素晴らしい方々が歴史を作ってきました。安田さんは中村寅吉先生の愛弟子で、2番、3番アイアンで沈んだボールをダウンブローで上げていく技術はすごかった。尾崎さんの実績は私が言うまでもありませんが、努力と忍耐が素晴らしかった。シニアになってからはプロアマを盛り立ててくれて、シニアツアーのホスピタリティーを上げてくれました」と話した。

 小林副理事長は「塩谷さんは私と同じ年なんです。20代の時には一緒に頑張ってきました。私の記憶では、ツアーでトレーニングをしていた最初の人。1つのことを一生懸命やられる人で、結婚して、家族を持ってというロールモデルになったと思います。ゴルフ界になくてはならない存在です」と話した。

会見では顕彰者、親族から寄せられた喜びのコメントも披露された。(一部抜粋)

◆山本増二郎 次男山本博さん

 父は昭和17年、私が生まれて直ぐ兵役につき、南方のラバウルに赴きました。戦地ではマラリアに罹り、生死の境をさまよう中、母親が何度も夢枕に立ち励まされたそうです。復員後も後遺症には苦しんでいたと聞いて居ります。
 その様な時代を経て我孫子GCに復帰後には、多くの仲間のプロさん方のご協力と、後援者の方々のご支援を得て関東プロゴルフ協会の再建に携われた事をとても誇りにして居りました。
 競技実績は無い父でしたが、ゴルフ一筋。ルールやエチケット・マナーにはとても厳しく、皆様には煙たい存在だったかもしれません。尋常高等小学校しか出て居りませんが、なぜか綺麗な文字を書き、解らない文字や言葉があると直ぐに辞書で調べる等、努力していた姿を見て居りますので、この度の受彰を、父はとても嬉しく喜んでいる事と思います。

◆古賀春之輔 長男古賀公治さん

 父・春之輔の名前が歴史に残ることは非常に光栄なことです。
 父の生家は東京・麻布で商売をしており、父は慶応義塾の幼稚舎から普通部、大学と進んだ生粋の慶応ボーイでした。17~18 歳のころ、兵庫県の芦屋に移っていた私の祖父の家を訪れた時にゴルフと出合ったそうです。やがて大学を中退して、芦屋の近くゴルフ場で慶応大学出身の村上伝二プロの弟子になったと聞いています。
 性格は温厚で、仕事に対してとても真面目。私は大学時代にゴルフを始めましたが、自分の子供だからと優遇するようなことは一切なく、父と一緒にプレーしたことは一度もありませんでした。それくらい、公私の区別をはっきりさせていた人でした。
 父は協会の役員を長く務めていました。実際にどれだけの功績を残したのか私自身実感はありませんが、みなさんが高く評価してくださったということをしっかり受け止めたいと思います。

◆安田春雄

 19 歳でゴルフのプロ入りをして、トーナメントに出場し始めて、今年で 79歳になります。約 60年間ゴルフの道一筋で歩いてまいりました 。
 思い起こしますと、試合も6試合か8試合しかありませんでした。私たちのような若造は、試合で食べていくことも出来ませんでした。東南アジアに出稼ぎに行き、極東サーキットの試合に出ていました。
 試合を増やしていくために、私たちは和製ビッグ3と名付けられ、ダンロップがビッグ3エンタープライズという会社を作って、全国で興業を行いました。日豪対抗や日米対抗などの試合を全国で行いました。当時は学生がローピングをしてギャラリーがプロの後ろをついてくる、プロとギャラリーが一緒に歩くトーナメントの始まりでした。そして日本でもゴルフに興味を持つ方が増え、試合数も少しずつ増えていきました。
 フィリピン・オープンは、日本人で唯一優勝した試合で、マルコス大統領から優勝カップを頂き、イメルダ大統領夫人から優勝賞金を頂きました。君が代を吹奏してもらった思い出があります。

◆尾崎直道

 私の座右の銘に「継続は修行なり」という言葉があります。ゴルフに向き合いひたすら努力を重ね、どんな困難な道でも乗り越えていく思いで頑張ってきました。
 アメリカ PGA ツアーの10年間とチャンピオンズツアーの6年間、家族を日本に置いて、日米の両ツアーを戦った事は、自分にとっても本当に大変な日々でしたし、まさに修行でした。でも、今振り返れば、どれも良い思い出で、我がゴルフ人生を精一杯生きてきた!と悔いなく思っております。
 日本オープンの2連覇はそんな苦労のご褒美だったのではないでしょうか。今はシニアツアーに出場したり、国内外の試合をテレビで観戦して、若手の活躍を楽しみにしながら観ています。今後のゴルフ界の発展、若い人たちの活躍を切に願っております。

◆塩谷育代

 私は 20才で、本当に運良くプロテストに合格し、初優勝は7年目の春でした。ただただゴルフが上手くなりたい、強くなりたい一心でした。その為に必要なことは、その時代において、すべてやってきたと思います。
 今でも忘れられないのは、トレーニング指導を受けた当時の東海大学田中誠一教授に「樋口さんや、岡本さんのようなゴルフ界の横綱にはなれないが、大関にはなれる。10 年後、賞金女王を目指してやっていこう」と言われたことです。その言葉通り、トレーニング指導と松井利樹プロの技術指導、そして家族の協力を受け、10年後目標を達成することができました。
 伊藤園所属は33年目になります。現役時代は、何の拘束もなく、ただトーナメントで活躍できるように頑張りなさいとの言葉だけでした。本当に多くの方々の教え、ご支援を頂きながら一本の道を進んでこられたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
 私の一本道は、形を変えてまだまだ続きます。

日本プロゴルフ殿堂では今回の殿堂入り顕彰に合わせ、「ゴルフ界に多大な貢献をした」として、2021年にマスターズで男子として初のメジャー制覇を果たした松山英樹、東京オリンピック・女子ゴルフ競技で日本選手初のメダル、銀メダルを獲得した稲見萌寧、全米女子オープンで初めて優勝を飾った笹生優花の3人に特別賞を贈った。

※一部敬称略
※顕彰者の年齢は2022年2月1日現在