日本プロゴルフ殿堂

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日本プロゴルフ殿堂入り発表の記者会見

Japan Professional Golf Hall of Fame

1月25日、東京・東京ドームホテルで第10回顕彰者を発表

日本プロゴルフ殿堂入り発表の記者会見

 日本プロゴルフ殿堂は1月25日、「第10回日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者」発表の記者会見を東京・東京ドームホテルで行った。

 会見には日本プロゴルフ殿堂の松井功理事長と、副理事長の小林浩美・日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)会長、青木功・日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長が出席した。表彰ノミネート委員27人の投票・意見を参考に理事会で決定した。

第10回日本プロゴルフ殿堂入りを顕彰する式典は、3月8日(金)14:00から、 神奈川・パシフィコ横浜で行われる「ジャパンゴルフフェア」会場で開催する予定。一般観覧可能。

松井理事長が発表した第10回顕彰者は以下の通り。

松井功理事長
小林浩美副理事長
青木功副理事長

 1972年以前に活躍し、功績を残したプレーヤーに贈る「レジェンド部門」では、井上清次を選出した。井上は神奈川県出身。子供のころに生家近くの程ヶ谷カントリー倶楽部でキャディーをしてゴルフの道に入る。キャディー仲間に同い年の中村寅吉がいた。1935(昭和10)年にプロとなり、38年に日本プロで決勝に進むが戸田藤一郎に敗れた。42年の関東プロで初優勝。戦後は51年に当時ホームコースだった相模CCで開催された関東プロ決勝で中村寅吉を破って優勝。翌1952年には同じ相模CCで開催の日本プロの決勝で陳清水を下して大きなタイトルを手にした。その後、岐阜カンツリー倶楽部に移籍。64年開場の岐阜関カントリー倶楽部には造成時から関わり、終生を過ごすことになった。同CCでは長男の幸一(84年東北クラシックなどツアー競技2勝)やJLPGA永久シード選手の森口祐子(2018年度日本プロゴルフ殿堂入り)ら多くのプロを育てた。1992年76歳で逝去。

 主に1973年以降に活躍したプレーヤーに贈る「プレーヤー部門」では、日蔭温子(69)、倉本昌弘(68)の2人を選出した。

 日蔭は岩手県出身。69歳。中学卒業後に集団就職のような形で上京後、一度故郷に戻った後に武蔵カントリークラブに再就職してゴルフを始める。1974(昭和49)年、20歳の時にプロテストに合格した。80年のヤクルトミルミルレディースで初優勝。82年には米女子ツアーの予選会をクリアして5年間、春先を中心に米国でプレーして最高位は4位だった。日本に専念した87年には6勝を挙げて大迫たつ子らと激しく賞金女王を争い、最終戦で惜しくも大迫に逆転されたが自己最高の賞金ランキング2位に入った。ゲーム運び、小技の巧みさには定評があり、日本女子オープンでは82、92年と2勝を挙げている。いすゞレディース(後の五洋建設・KTVレディース)では同一大会5勝の偉業を成し遂げている。また、90年代には現役のプレーヤーでありながら大学の客員教授や非常勤講師としてゴルフの授業を受け持つという異色の二刀流でも注目を集めた。

 倉本は広島県出身。68歳。ジュニアのころから卓越した成績を残し、日本大学時代は空前絶後の日本学生選手権4連覇を達成。日本アマでは3勝を挙げ、1980(昭和55)年の中四国オープンをアマチュアで制した。81年にプロ入り。82年の全英オープンで記録した4位は今なお同大会の日本選手歴代最高順位として残っている。同年の日本プロでは初出場で優勝の快挙を達成。92年にはプロ入り後25勝に到達して永久シードを獲得。翌93年には米ツアーでもプレーしている。2003年のアコムインターナショナル初日には国内ツアー競技初となる59をマーク。同大会で通算30勝目を手にした。シニアでも存在感を示し、国内シニアツアーで2度の賞金王に輝くなど通算8勝。欧州シニアツアーでも優勝している。プレー以外でも日本ゴルフツアー機構設立に携わり、日本プロゴルフ協会(PGA)会長を約9年務めるなどプロゴルフ界の発展に尽力してきた。

 発表後、松井理事長、小林、青木両副理事長が顕彰者3人との思い出などを話した。

 青木副理事長は、井上について「(長男の)幸一は良く試合をしたが、井上さんは設計家として有名ということは知っています。井上さんが設計した岐阜関で73年の日本プロに優勝した思い出があります。森口祐子さんが弟子入りするときに『樋口久子に勝てるか。勝てるなら師匠になってやる』といったらしいです」と話した。また、レギュラーで優勝争いを何度もした倉本については「思い出はいっぱいありますが、広島から出てきて日大に入ったころかな、日大の(当時の)竹田監督に『これからは日大の選手がゴルフ界を引っ張っていく』と言われて、オレの目の黒いうちはそうはさせないって言ったよ」と笑った。

小林副理事長は、日蔭について「私がプロ入りした1985年にはもう活躍されていて。すごくきれいで、スタイルがよくて、強くて。すごく確実なゴルフをする方でした。強いときもまじめで、練習もたくさんやっておられた。日本女子オープンに勝たれているので、今はそのチャンピオンズディナーでお話しています」と話した。

松井理事長は「井上さんは中村(寅吉)さんと同い年で、怖いイメージがありました。『樋口に勝てるような選手を仕上げるから』といっていたのが森口祐子さん。女子プロを育てながら、いろんなコースの監修をされていた」といい、倉本については「小さいけど、ポパイと言われて飛ばすし曲がらない。ショートアプローチもオレよりうまいのはいないだろうとぐらいに、ずっと自信をもってやっていた名プレーヤーだと思います。自分の意見を持っている方で、ルールにも詳しくて、天才的な選手じゃないですか」と話した。日陰については自身が解説していたテレビのレッスン番組などを通じて「飛ばないけど曲がらない。パッティングは2~3mは必ず入れる」とうまさが印象に残っているという。

会見では顕彰者、親族から寄せられた喜びのコメントも披露された。

井上幸一氏(井上清次長男)

 殿堂入り顕彰者に選んでいただいて、本当にありがたいことです。これまで殿堂入りされている方は宮本留吉さんや中村寅吉さんはじめ、立派な方ばかり。その中に加われるのは、ゴルフに携わってきた者にとっては本当に幸せなことだと思います。親父は、中村寅吉さんとは同い年で、程ヶ谷カントリー倶楽部のキャディー仲間。幼馴染みたいなものでした。中村先生は樋口久子さんを育てたことでもよく知られています。親父自身は、ゴルフでは中村先生にはかないませんでしたが樋口さんに対抗できる選手を育てるんだと一生懸命になって森口祐子さんに教えていました。森口さんに対しては僕たち男性の弟子よりもはるかに厳しく接していたことを覚えています。岐阜関カントリー倶楽部から森口さんに続いて2人も殿堂に選んでいただいたのは本当に名誉なことです。今年はちょうど親父の33回忌です。法要でいい報告ができると、みんなで喜んでいます。

日蔭温子

 中学卒業後、岩手県の小さな町から就職のために上京した私はやがて実家の事情で故郷に戻らなければならなくなりました。故郷で仕事をしながらも、もう一度外の世界に出たいという思いから通っていたハローワークでたまたま見つけたのが埼玉県の武蔵カントリークラブでの仕事。それがゴルフとの出合いでした。本格的にゴルフを始めて2年あまりでプロテストに合格することができました。ですが、飛ぶわけでもなく、うまいわけでもない、何が取り柄なのか分からないような私が少しは結果を残せたのは周囲のみなさんの応援があったからです。まだあまり実績がなかった時代に米女子ツアーに挑戦できたのも当時の所属先である日本テレビさんのサポートがあったから。お陰でさまざまなことを経験でき、日本女子オープン優勝などその後の成績につながったと思っています。この度、縁がないものだと思っていました日本プロゴルフ殿堂入りの知らせに驚くと共に、これまでお世話になったみなさんのおかげだと感謝の気持ちが沸いてきました。本当にありがとうございます。ゴルフと出合えてよかったと、今、改めて感じています。

倉本昌弘

 この度は、日本プロゴルフ殿堂顕彰者に選考いただき、ありがとうございました。日本プロゴルフ協会(PGA)の会長を2022年まで8年間務めさせていただき、その間は日本プロゴルフ殿堂の副理事長として顕彰選考にかかわってきました。その度に、候補者の中に私の名前がありましたので、いつかこの日が来るのだろうな、と思っていました。改めて関係者の方々に感謝します。偉大な先人の方々の仲間入りができたのは非常にうれしいです。物故者を除くと学生ゴルフの出身者(日大)としては私が初めての受章になります。これからは多くの学生ゴルフ出身者が、この日本プロゴルフ殿堂の一員になることでしょう。その先鞭をつけられたことが、誇りでもあります。私のところから時代が変わっていく、という思いをしみじみと感じます。10歳からゴルフを始めて、日本アマに1975年から6年間で3回優勝し、日本学生で4連覇、アマチュアで初めてのツアー優勝(1980年中四国オープン)も経験し、25歳でプロゴルファーになりました。当時から海外志向があり、学生時代にはアジアサーキットに行きました。全英オープンにも挑戦しました。ただ、プロ入りしてからは国内ツアーとの関係もあり、思うようにいかなかったことも確かです。1993年にQT1位で米ツアーに出場しましたが、残念ながら自分のピークが過ぎていたころでした。国内30勝で永久シードになっていますが、納得している部分はありません。でも、なかなか言葉では表せないのですが、こだわりをもって勝つという思いが自分の中にはありました。これまでのゴルフ人生で悔いがあるとすれば、JGTOの改革ができなかったことです。PGAからJGTOを独立させて主催権や放映権を自分たちで持ちたいという理想をもって30代半ばから活動しました。独立はしましたが、自分が現役プレーヤーだったこともあって、十分かかわり切れなかったことに悔いが残っています。PGA会長としての8年間も、PGA会員のことを考えるとゴルフ界に不満がでる、ゴルフ界のことを考えると会員に不満が出る、という中でなかなか改革を進められなかったことも悔いが残っています。今のゴルフ界、男子ツアーには若いいい選手がたくさん出てきて、玄人目に見ると活気があって素晴らしいと思います。でも、一般の人から見ると地味に見えてしまうのが残念。メディアの方々はじめ、ぜひ男子ツアーのいいところを見ていただきたいと感じています。ゴルフに巡り合えてよかった。ゴルフをプレーする楽しさは無限にあります。これからもゴルフとともにあると思います。ありがとうございました。

一部敬称略
※顕彰者の年齢は2024年1月25日現在